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構内にあった学寮

山高校時代から、昭和43年に取り壊されるまで校内の左奥に学寮があった。昭和30年代は、寮生が約300人。2階建ての6寮が有り、1棟の左右は2人部屋(役員か4年生)、後は5人部屋であった。工学部、農学部の方も1年〜1年半の一般教養時代は入寮していた。寮は、新入寮生歓迎会に始まり、観桜会、全寮登山、最上由義光祭への仮装行列参加、寮祭、スポーツ大会、卒業生を送る会など多くの行事があった。
この学寮も昭和43年に取り壊され、千歳山の近くに鉄筋4階建ての新しい学寮に変わった。
今回は、校内にあった学寮の行事の1つである観桜会を取り上げることとした。


学寮の観桜会と馬見ヶ崎

今年の山形の桜が満開になったのは4月20日前後であったようだ。昭和30年代の馬見ヶ崎の河原はごつごつした石が多く、多くの人が一緒に花見や芋煮をやることは難しかった。

今は、水道施設もあり、花見をしながらお弁当を食べたり宴会も出来る。芋煮会は、多くのグループがビニールシートをして楽しめるようだ。【山口茂男 校友会事務局次長撮影】

平成10年頃の馬見ヶ崎の桜と河原。現在ほどではないが、
食事やお酒を飲みながら花見や芋煮会が出来たようだ。

【田宮良一 ふすま会山形支部長(文理9回)撮影】
毎年4月の20日前後の日曜日、馬見ヶ崎の土手に250名を超える学寮生が集まって、寮歌を歌い、わずかのお酒を分け合って飲んだ。(この行事は昭和30年代の初めからあったようだ)

馬見ヶ崎の対岸の土手にて寮歌を歌う寮生

リヤカーで寮の太鼓を持って行き、それをたたいて歌った。

「嗚呼乾坤の」、「ひかり北地に」は、文理学部時代の2大寮歌だった。寮歌や学生歌「みどり樹に」や「みちのくの」を歌ったように覚えている

昭和35年前期の寮役員の集合記念写真
 寮歌はまず「嗚呼乾坤に」を歌い、最後は、ひかり北地にでしめる。それは、今と変わらない。昭和34年後期学寮委員長の小山昌志(文理10:東京ふすま会前事務局長)はひかり北地にの冒頭の詩句を暗唱しており、高らかに吟唱していたことを記憶している。      

懇親会でお酒おわけ会って呑み、懇談する寮生

現在は整備された河原で楽しんでいる人たち(平成264月)
【山口茂男 校友会事務局次長撮影】
   
 平成10年頃の河原
【田宮良一 ふすま会山形支部長(文理9回)撮影】
     

今年の夜桜【山口茂男 校友会事務局次長撮影】