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会報「乾坤(140号 2018.3.31発行)とびら

広報部会の お勧め4篇 (文中 敬称略)

01新年賀詞交歓会盛大に挙行される
恒例の「新春トーク」。
真野孝雄氏(28回理)は就職難時代に就職した東亜合成で商品化されたアロンアルファについて。
八木正毅氏(文理13回)は趣味の卓球の思い出や医学的効能について。
最後に寺﨑誠氏(人文9回)はフィリピン、台湾、インドネシアへの都合15年の海外赴任の思い出を語ってくれました。

       29回文乙回(昭和24年修)新田孝二
(前略)
次いで懇親会に入る。まず乾杯。乾杯の音頭は山高28回理科の森 参治氏が務められた。懇談に入ってからは、食事をとりながらではあるが、上田清基、高橋正光、庄司文啓、高垣直澄の各氏からスピーチがあった。その中で山高21回理乙の上田清基氏の話。上田さんは百歳近い方なのだがお元気で、東京教育大学に農学部農芸化学科、生物化学工学科、および筑波大学応用生物化学系という将来性のあるのに傍からは信用されにくい学科の新設に苦労されたお話には感動をおぼえる。また初参加の黒田多聞(人文2回)、長谷川憲司(理4回)、野口 浩(人文14回)の各氏が自己紹介と、近況などを話された。

「賀詞交歓会」に参加して

人文2回回(昭和47年卒) 黒田多聞

(前略)
卒業以来、人生いろいろございまして、汚いも綺麗も裏も表も夜討も真向勝負も、さまざまに経験してきたが、そんなもの全部置き去りにして、欲も得もなく裸で向き合ったあの時空の再現に浸れ、良き思いが残った。
 改めて、東京ふすま会に礼を伝え、会を作り守り育ててきた諸先輩諸兄に、深く謝したい。

02第13回山大OB&OGセミナー
3月3日(土)田町グランパークにて開催、山大東京サテライトと山大校友会が共催し山大卒業生等首都圏ネットワーク(会長 三俣東京ふすま会会長)が後援するもので山大全学部の同窓会で、参加者は大学関係者を含め130名を超えたが、我が東京ふすま会は35名と他を圧倒した。
小山学長の挨拶で始まり、講演は山大学術研究院 江頭教授が「在来作物は生きた文化財~その魅力と活用」、山大学術研究院 松本准教授が「『今、ここ』の偶然性と必然性」と題して話されました。

理18回(昭和53年卒)斉藤 彰

会場内で学部を越え山形の地で学び遊んだ同窓生の懇談が続くなか、各同窓会の紹介となり、トップバッターは東京ふすま会の笹谷仁則副会長(人文1回)、次々と各同窓会からの自己紹介があった。会場内から寮歌の声がかかると東京ふすま会
の有志が登壇し渡會成良氏(文理6回)のリードで山形高等学校全寮々歌『嗚呼乾坤の』一番・二番・五番を放唱した。
(後略)

OB&OGセミナーに参加して

(1)人文14回(昭和59年卒) 丹野芳和

(前略)
こういうOBセミナーや同窓会に参加していつも思うのは、参加者、特に若い世代の参加者が少ないことです。今年は例年以上に参加者が多かったと思いますが、それでも200
名の定員に100名弱でした。その中で50歳代半ばの我々が若手の部類に入ってしまうのでは淋しい限りです。ぜひ来年はひとりでも多くの方々、特に若手の方々に参加してもらいたいと思います。皆様、来年はぜひ会場でお会いしましょう。

(2)人文21回(平成3年卒) 石川弘毅

3月3日ひな祭りに開催された山形大学OB・OGセミナーに参加してきました。
 北海道出身で卒業後は東京と名古屋が主な赴任地だった私にとって、これまで母校の再訪や大学に関係する行事に参加したことはなく、山形大学とは「遠きにありて想うもの」まさにそんな感じで、青春の思い出の場所というものでありました。そんな私が、会社の先輩でもある髙橋廣樹さん(人文13回)から年末に催された山形大学首都圏ネットワーク総会へお声掛け頂き、そこで会社のさらに大先輩である笹谷副会長をご紹介頂いたことから、本セミナーに参加させて頂くに至ったものです。(後略)
03乾坤あーかいぶす
戊辰戦争を考える。

18回文乙(昭和15年卒) 坂本春吉

第17回は坂本春吉氏の「戊辰戦争を考える」です。(第53号平成元年2月1日発行より転載・総会記念講演要旨)今年は元号が明治になってから
150年です。戊辰戦争から天皇中心の新政府の樹立。「降る雪や明治は遠くなりにけり(今では昭和か)」。「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」との話もあるがこれを機に見方の異なる本を読むのも一興ではないでしょうか。
題字は兼本靜子(文理6回)

(前略)
もし真に21世紀を東洋の時代とするつもりなら、やはり東洋古来の思想、仏教の「山川草木悉皆成仏」、儒教の「仁」、神道の「八百万の神々」を敬うという、宇宙・自然との共存の思想を、世界人類にひろめるとの理想の炬火、それを高く揚げるべきではないか。そうして日本はまず、「国としての徳」を厚くし、アジア諸国の真の信頼をうるように心がけるべきで、それがわれわれ〝戦中派〟の後世に負う責任でもあろうと思われる。戊辰以来数十百万英霊のいのちを真に生かし、日本民族の永生を保障する道は、この他にないと思われるが、どうであろうか。

04寄稿4題

(1)「我が学舎よ永遠に」
     27回理(昭和24年卒) 薄井耕一

(前略)
若い時には考えもしなかった米寿を、息子達と一緒に、信州八ヶ岳の麓、原村で迎えることになった。昼は美しい山々を眺め、夜は降るような星や輝く月を愛で、縄文時代に思いを馳せつつ、時には昔取った杵柄を、請われるままに地域の環境改善に役立てながら、悠々自適の生活を楽しんでいる。最近の家は断熱材の性能向上で暖かく、厳しい寒冷地でも日中は太陽の光が射し込むとストーブなしで過ごせる。有り難い限りである。
 兎に角我がふるさと山形、懐かしい学舎の想い出は尽きない。いつまでも続いていて欲しい。それには、争いのない平和な暮らしが世界中に広がり、永遠に続くよう祈るばかりである。

(2)「そのとき私の歴史が動いた」
      理5回(昭和50年卒) 藤崎洋子

(前略)
大学4年の卒論は蔵王の硫気孔原植生だった。当時理学部から教養部で卒論指導するというのは色々もめたという話を先生から聞いた。でもそういう大学内でのごたごたも齋藤、石塚両先生のおかげでなんら煩わされることなく、楽しく毒ガスにまみれながら調査にいそしむことができた。夏の暑い日に100m登るだけでもつらく、細胞学や発生学を卒論にしている同級生は今頃アイスを食べながら涼しげにやっているんだろうなと、う
らやんだことも今となっては楽しい思い出である。 その後「私は校長になるために一級免許を取りたい。だから大学院へ行く」と嘯きながら奈女子大の大学院へ進学した。残念ながら結局、校長にはなれなかったし、マイクロピペットも扱えない単なる老婆になってしまった。山形にはこの30年近く行っていない。死ぬまでに一度蔵王の硫気孔原を訪れ、自分の青春時代を葬り去りたいと思っている今日この頃である。

(3)「人生は邂逅」
     文理11回(昭和38年卒) 林 信行

(前略)
これで45年も持ったなと今でこそ思うことは、「美味しい仕事は向うから来ない」、「嫌な奴と思ってもこちらから好きと思って接すれば相手も打ち解けて来ます」誕生日が同年同月同日の客先の偉い人と夫婦共々20数年おつき合い、同姓同名同じ字の客先の人ともおつき合いしてます。
 「人との出会いを大切に」

(4)「バイト先と思い出の歌」
      人文17回(昭和62年卒) 佐藤雄二

(前略)
本年より山梨県の甲府で勤務をしております。
 富士山、八ヶ岳、南アルプス等3千m級の山々に囲まれた盆地であるこの地は、夏暑く、冬寒いという、まさに、山形とよく似た気候です。 着任した7月は、連日35度越えの日が続き、学生時代にバイトを始めた年の7月と同じような感じであったことから、その思い出について、当時良く耳に
していた歌とともに書かせて頂きます。
◇純喫茶ポール・思い出の曲 「ボズ・スキャッグス」の「ウィ・アー・オール・アローン」
「ばんだい」は小姓町の料理屋さん。
(後略)