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会報「乾坤(138号 2017.08.1発行)とびら

広報部会の お勧め5篇 (文中 敬称略)

01平成29年度総会開催
5月20日(土) 学士会館
               人文9回(昭和54年卒)寺崎誠

初夏を思わせる陽気となった5月20日(土)、来賓を含め44名の参加による平成29年度東京ふすま会総会が学士会館にて行われた。
 第1部 理事会・総会
 昨年に続き理事会と総会を一
括して行った。
(中略)
その後4議案一括して審議に付され、満場一致の拍手をもって承認された。
 第2部 記念講演
 高山今朝雄氏(文理10回)による記念講演「宗教の変遷から
見たインドの歴史」
(中略)
インド6千年の宗教の変遷を概観し、インドの持つ多様性への理解の一助としようとする壮大な労作で、近年著しい発展を見せる世界最大の民主主義国家インドについて考えるヒントを頂くことができた。

 第3部 懇親会
 講演会に引き続き、懇親会へと移り、
(中略)
乾杯のご発声は板井道生氏(山高27回文乙)。落ち着いた中
にも品格の感じられるご発声であった。
(中略)
後半は寮歌「嗚呼乾坤の」、学生歌「みどり樹に」、そして最後は「ひかり北地に」を高唱した。(後略)

総会に出席して
(1)文理16回(昭和43年卒) 原田康司
総会が開催される学士会館は灰色の石と薄茶色のレンガを
張った歴史を感じさせる堂々たる建物であった。
(中略)
記念撮影をし、引き続き懇親会となった。自宅から通っていた小生が羨ましく思うくらい寮生活の話で盛り上がる。先輩、後輩、同じ思い出だ。「嗚呼乾坤の」「みどり樹に」最後に「ひかり北地に」を合唱した。(後略)

(2)文理18回(昭和45年卒) 高垣直澄
当「乾坤」紙の堀切編集長から標題について感想を書けとの仰せに当惑している。齢古稀となり人生の黄昏期に淡々と身を
任せている私には取り立てて申し上げる感懐なぞ無いのだから・・・・。
(中略)
わが東京ふすま会には旧制高校卒と大卒の二重構造があって、圧倒的に旧制高校卒の集まりがよいと聞いている。然り、旧制高校には、時代的なエリート意識と「嗚呼乾坤の」に象徴される学寮という共通基盤があったからだろうと想われる。
(後略)

02総会記念 文理10回(昭和37年卒)
          高山今朝雄
「宗教の変遷から見たインドの歴史」−急成長のインドを理解するために
〔インドの混沌と魅力〕
 
インド経済は、遅ればせながら急成長して世界の注目を浴び
ている。IT産業は、英語力と理数系に強い人材に支えられて躍進、製造業では製薬・バイオ・自動車・鉄鋼で国際競争力を付け、GDP成長率は中国を上回る。(中略)
こうして仏教は、スポンサーの権力者が住む都市を拠点に発展した。反面、バラモン教は農村部に逃げ込み、土俗信仰や風習と長い時間をかけて融合し、後のヒンズー教に変転した。
〔困難な悟りへの道〕
(中略)
こうなると仏教修行は、世のしがらみを断った出家者中心になり、いつしか世間から遊離して行った。
〔大乗仏教の出現〕
 ブッダが食中毒で死んで五百年後の西暦元年頃、出家者中心のブッダ仏教を批判する教団が出現、真の仏教は大衆救済を目指すもので、かつ、出家しなくとも「悟れる」と主張した。自らを「大乗仏教」と称し、従来の仏教を「小乗仏教」と呼んで軽蔑した
〔仏教の滅亡〕
(中略)
集中的に都市部を拠点とする仏教徒は、一挙に生活と修行の場を失い、インドの大地から滅亡した(鎌倉時代初期)
(中略)
仏教は、儒教や道教とミックスされて中国化され、日本へは飛
鳥時代の西暦五三八年に伝来した。本来のインド仏教に無先
祖崇拝や道徳などが練り込まれ、仏像もギリシャ風の面立ちから丸顔にされて伝わった。(後略)
03寄稿2題

(1)29回文乙(昭和24年修) 吉野重彦
   寮歌祭雑感
(前略)
最盛期、全国に57カ所もあったという寮歌祭も、今年の開催
予定は、歌謡祭風のものを含めても19カ所。殆どの旧制高校寮歌祭は、あと数年で、姿を消すことになろう。
(中略)
その昔、蔵王寮歌祭で「登壇の際、宿の浴衣の着流しはご法度、必ず袴着用」と、やかましく言われたことを思い出す
が、士たるものの誇りと志を忘れるなということだったと理解している。
(中略)
暁の空に最後まで瞬き続ける寮歌祭はどこなのだろう?
その「君の名は」の見届け役は、山形の学寮生活を体験されたふすま会の若い?皆さんにお願いする他なさそうである。

(2)文理8回(昭和35年卒) 栗林伊与子
   七彩丹霞 絶景の旅
人生既に80年!幸せにも様々な旅をすることができた。旅先でみた景色に感動しシャッターをきりメモをとる。しかし整理もしないうちに月日が経ちそのままガラクタと化す。結局心の
アルバムに残ったもので十分と記録は残さないことにして今日に至る。
(中略)
虹色に輝く七彩丹霞の絶景、チベット文化、蘭新鉄道等々、これは行かなければ!と5月10日から僅か6日間(正味4日)の旅であったが出かけることにした。ルートは上海→西寧(タール寺、東関清真大寺)→蘭新高速鉄道(祁連山脈)→張掖(七彩丹霞、氷溝丹霞、馬蹄寺石窟、大仏寺、木塔)→蘭州→上海である。(後略)

04第20回ふすま寮歌祭 7月13日喜山倶楽部
     29回文乙(昭和24年修) 新田孝二
(前略)
次いで、副会長の森参治(山高28理)氏の音頭で乾杯があっ
て会食・懇談が始まったが、森副会長の挨拶の中で述べられていたように、会食中、DVD化された寮歌祭が試聴された。なつかしい山高の先輩方の顔が次つぎにあらわれる。面白い資料は、寮の様子を写すDVDなど、他にもたくさんあるようである。たまたまわれわれのテーブルにDVDのケースがあり、その表に、学寮内の建物が写っており、学寮の敷地内の先生方の住居も一寸写っていた。(中略)
13時15分、第一部・寮歌・部歌・学生歌に入る。進行役は新
田孝二・吉野重彦(共に29回文乙)浅田暢彦(29回理科)高
橋正光(文理7回)、笹谷仁則(人文1回)である。歌は「嗚呼乾坤の」「みどり樹に」「みちのくの」「愁いに沈む」「山岳部コーボルトの歌」と次々に歌われた。コーボルトの歌が終わったあと、上田清基先輩(山高21回理乙)による昔の「コーボル
トの歌」が紹介され、お一人で歌われた。よく覚えておられる
ものだと感心した。「見よや連なる」「一寮節」「山形高等学校
校歌」を歌った。校歌をこの場で歌うのは初めてだが、思い出深い歌なので、いい企画だと思った。
 第二部は他の高校の寮歌である。今回で2回目である。他所で行われる寮歌祭で歌われるなじみの深い歌がたくさんあるので、われわれも気軽に歌える。「都ぞ弥生」(北大予科)「嗚呼玉杯に」(一高)「紅萌ゆる」(三高)は、時間の関係からか、飛ばす。「われは湖の子」(琵琶湖周航の歌)(第三高等学校ボート部)「窓は夜露にぬれて」(旅順高等学校)「春寂寥」(松本高等学校)「北辰斜に」(第七高等学校)を歌う。
(中略)
第三部は、「花は咲く」「故郷」。よかったねー。最後は、みんな立ち上がって「ひかり北地に」を歌う。15時、解散。

05乾坤あーかいぶす
     文理1回(昭和28年卒) 八柳正和
         「旧制山高生と新制山大生」を体験して第15回は八柳正和氏が平成元年10 月19日開催の東京ふすま会総会で講演された要旨です(第56号平成2年1月15日発行から転載)。戦後の学制改革の影響で旧制山高に入学し卒業時は新制山大文理1回生です。突然の改革の中、旧制山高生と新制山大生の二つを体験し学寮と校舎を共有しながら学生生活を送られました。当時の状況を伝える貴重な内容です。
私が山形高校第29回生として入学、いや入寮したのは昭和
23年の春のことでした。ここであえて入寮としたのは、それ以
来、新制山形大学の第1回卒業生として山形の地を去るまで、終始私の山形生活は、寮とともにあったと言えるからです。
(中略)
私達の高校生活も学生改革の波に次第に洗われ、楽しかるべき日々もなぜかうす暗くなる思いがしました。そして、その年も暮れ昭和24年がやってきました。4月からはかんばんも山形大学という新しいものに代わりました。
(中略)
月日は流れ昭和25年の3月、数少ない三年生の寮生は、後輩ではないはずの大学1回生ながら同じ釜のめしを喰った仲間として、なんのわだかまりなくすごした寮の後輩から送別コンパでおくられ、なつかしい山形の地を去って行きました。
(中略)
私の青春は、当時一世を風靡した「青い山脈」のように、東に西に見渡すかぎり山のつらなりに囲まれて過した山形での数年間であり、これこそ本当の青春だったのだと、思うだけで涙するこの頃なのです。(八柳正和氏は127号に続き2度目の登場です。)