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会報「乾坤(136号 2016.12.01発行)とびら

広報部会の お勧め5篇 (文中 敬称略)

01第20回「山大の集い」盛会裏に開    催
9月24日(土)14時から山大東京サテライトで60名が参加。人文、理学部の若手が増加し今後に期待

(前略)講演会に引き続いて懇親会へと移り、ふすま同窓会安彦事業部長(文理17回)の乾杯の発声で懇談が始まった。卒業年代別に6テーブルに分けられての懇親スタートであったが、暫くするとテーブルを移動する方が多くなり、年代を超えた活発な交流となった。親子ほど年齢が離れていても、たちまち打ち解けて、それぞれの小白川、それぞれの学寮を語りあえる、まさに同窓会の真骨頂ともいうべき光景が見られた。
           人文9回(昭和54年卒)寺崎 誠

「山大の集い」に参加して
(1)文理16回(昭和43年卒)大橋繁雄
(前略)宴たけなわのうち時間となり寮歌「嗚呼坤の」と学生歌「みどり樹に」を歌い津森副会長の閉
会挨拶で終了となった。
 小白川の懐かしい日々を思い出し大いに語り楽しめた集いであった。音沙汰の少ない理科同期にも参加の声を掛けふすま会を盛り上げたいと思っている。纏まりのない文になってしまったことをお許し願います。

(2)人文1回(昭和46年卒)山本幸男
(前略)同窓会は不思議な空間かもしれません。後輩の多くの人達と話をして、エネルギーをもらい
ました。五十嵐京子、寺崎誠、林ふじよ、丹野芳和、堀川真、佐藤雄二、斎藤彰、金成弘樹以上8名の各氏ありがとう。そして吉田正文さん他、話をさせて頂いた6名の先輩からも、大きなエネルギーを頂きました。
 卒業後何十年経って初めて、「生きざま」を語れるのかもしれません。それを聞く場として同窓会はまたとない機会を提供してくれていると感じました。最後に同級の笹谷さんに誘って頂き感謝しています。

(3)理4回(昭和49年卒)長谷川憲司
「山大の集い」の参加は、4回目になります。「東京ふすま会」の案内は昔から継続して頂いておりましたが、やはり山高の先輩方の集いが中心と考えていましたので、なかなか若輩者の私には敷居が高いと思っておりました。初参加の4年前にな
りますが、「山大の集い」の案内が目に留まりました。首都圏の在住者以外に、周辺の地域在住者まで参加範囲を緩めて頂いたと思います。ちょっと顔を出してみようかと思ったのが出席の発端で、その後病み付きになり、毎回の出席となっております。(後略)

02「山大の集い」記念講演
山大人文学部の近況について(要旨)
       山形大学人文学部長 清塚邦彦教授
(前略)その分かりやすい指標として、出席確認という例に触れてみましょう。今では私は、毎回の授業でごく当たり前のごとくに出席確認を行います。私の場合ですと、最近では、IC学生証をリーダーにかざす出欠確認システムを用いるのが普通ですが、大教室の場合など、授業開始時に確認を済ませるなり抜け出してしまう学生もいますから、厳密を期すれば、さらに別途、確認用紙が必要だという議論もあります。また、出席は履修の前提だけれども、成績評価の対象になるのは出席ではなくて授業内での態度や活動なのだから、単なる出欠確認に加えて一定の課題を添えたレスポンスカードが必要だという意見もあります。私自身、そうした色々な手法を取り交ぜて使っています。しかし、出欠にしても授業態度にしても、完全無欠な確認法はありませんので、どこかで妥協が必要になります。が、ではどこで打ち切りにするかについては明確な指針はなく、いつも悩ましい判断が求められます。(後略)

03第30回見学会
後輩女流講談師と江戸城歴史探訪の後講談を聴く。大入満員46名参加、家族参加型が功を奏す。

         人文1回(昭和46年卒)笹谷仁則
(前略)定刻通りのスタート。コースは皇居東江戸城ゆかりの史跡を小1時間の予定である。
(中略)13時30分定刻、講談が始まり、演目は江戸城に因んで『大久保彦左衛門 盥たらい
の登城』で30分の熱演だった。多くの人は琴柑さんの講談は初めてであり、また講談自体が初めての人も多くおられました。
(中略)宝井琴
柑さんのプロフィールの紹介をしました。
 山大人文34回の卒業生で、本名は綿貫 麦、われら東京ふすま会の会員でもある。
 平成26年にはふすま総会の席上講談を披露し、大学では現役学生を対象に講義もしている。
 卒業後一旦出版社に勤務の後、業界には平成
18年4月に宝井琴星師匠に入門しており、平成
22年に二つ目に昇進した、前途有望の講談師である。売りは『国立大学卒業初の美人(これは私見?であるが)女流講談師』である。さらには平成29年の高校の現代社会の教科書(清水書院発刊)に伝統芸能者としての紹介で掲載されることが決定との報告の後事務局から【宝井琴柑さんを真打にする会(東京ふすま会後援会)】立ち上げの提案があった(後略)

見学会に参加して
(1)文理18回(昭和45年卒)高垣直澄
同窓会は大凡つまらないというのが世間の通り相場で、私を含む大方の人は同窓会の案内状が来ると、不参加の口実を探すのが常であろう。しかし今回の企画はなかなか面白かった。
(中略) 同窓会はたしかに鬱陶しいところもあるが、かといって無いのもまた寂しいもの。これまでの無沙汰を反省したい。
 今回所用があって二次会に出席できず残念だったが、笹谷君、また頼むよ。

(2)人文14回(昭和59年卒)丹野芳和
東京ふすま会の行事等には積極的に参加しているつもりでしたが、いつも「山大の集い」で、今回初めてそれ以外の行事に参加しました。そのうえ妻も一緒に参加するという、大変記念すべき?行事になりました。
(中略)最後に、同窓会の加入者数の減少や活動の低迷が言われて久しいですが、私も「山大の集い」以外の行事に初めて参加して、改めて「参加」してみないと何も始まらない、と感じました。皆様、ぜひ一度東京ふすま会の行事に参加してみてはいかがですか。何か新しい出会いや発見があると思いますよ。

04第7回懇親芋煮会
11月12日(土)快晴のもと若洲公園にて馬見ヶ崎河原を思い出しながら開催さる

(1)文理17回(昭和44年卒)稲村三夫
(前略) この後アルコールも回ったところで、参加者一人一人からスピーチがあり、小白川時の芋煮会に関する話題など盛りだくさんの愉快な話が続きました。また今回は初参加の方々もおられ、学生時の懐かしい思い出話などで会は大いに盛り上がりました。
 初冬快晴の中、和やかなうちに時間が過ぎ、絶え間ない笑い声が続き全員による合唱でお開きとなり、そしてバスにより最寄り駅新木場駅前に移動し、解散となりました。
 がしかし、実はこれでは終わらなかったのです。ふと気が付くと、賑やかで楽しかった会の余韻に浸りながら、夕闇迫る駅前通りを、次なる語らいの場を目指し、歩き始めている人々の群れがあったのです。

(2)人文1回(昭和46年卒)堀切一夫
(前略)芋煮の具には高価な和牛肉もあってかいい味が出ていた。勿論、芋煮のおいしい味付けは初代シェフ中里さんからご指導よろしきを得て引き継いだ稲村さん達の腕によるものある。私は3杯もお代わりをした。お腹も落ち着いたところで恒例となっている参加者の近況報告や芋煮会の感想などが笹谷さんの名司会により、山高先輩の永井さん(27回文乙)をトップバッターに年次順に披露された。引き続きこれまた恒例の大正
12年全寮々歌「嗚呼乾坤の」、昭和33年度山形大学・学生歌「みどり樹に」を全員で高唱した。おいしい芋煮を食べ酒も程よく入り、心地よい合唱だったと思う。

(3)理18回(昭和63年卒)斉藤 彰
(前略)芋煮会を始めた切っ掛けは、山大若手会員の増加という東京ふすま会の永遠の課題からです。総合対策特別委員会という重々しい名称の機関を小山昌志委員長(文理10回)以下、文理3名、人文2名、理2名で組織され、その会議の中で山大の若い世代が集まれるよう芋煮会をやろうと清水透氏(理7回)から提案がありました。
 平成20年秋の開催を目指したが、食材持ち込みが可能で飲酒可能な会場を探すのに苦労しました。私たちの要望にかなう会場がやっとみつかり、平成21年4月4日の桜爛漫の中、横浜こ
どもの国で有志10名による芋煮会が開催されました。(後略)
05寄稿等
1.山翠会の暑気払い

         27回文乙(昭和24年卒)板井道生
台風7号が足早に北上した酷暑の8月17日(水)、山翠会は「暑気払い」を学士会館『二色』で行い、7名が集まりました。矍鑠91歳の五十嵐君からふすま同窓会本部の状況および吉村元会長、佐藤亮貫和尚、遠藤 拓氏への弔問の報告と能代寮歌祭と佐々木満会長の様子等が話されました。吉野重彦君が7月14日(木)のふすま寮歌祭で従来の形を改め全国有名寮歌等も加えて成功した経緯を述べられました。(後略)

2.幼稚園づくりを「わが人生}の夢として
        29回文甲(昭和24年修)安部富士男
(前略) 安部幼稚園を設立して、53年になる。学生アルバイトで幼稚園を作ったわけだから、幼稚園教育経営は容易ではなく、何度も危機に直面した。その都度、幼い子どもたちの優しさに支えられて危機を越えることができた。
 私が幾多の困難を越えてくることができたのは、高畠の万屋の小母さん、寮の小父さん、肺炎になった私をリヤカーで入院させてくれた山高の級友や寮の仲間たち、行商に出ても売れないで落ち込んでいる私を癒してくれた馬見ヶ崎川の風景、優しい園児たちのお陰と感謝している。
 小白川寮の中庭にて 富士男
 使徒のごと 旭の影を曵く
                            寒雀

3.学寮の思い出
         文理16回(昭和43年卒)後藤雍正
当時、授業料は月1千円、寮費は1日3食付きで月額4千円弱であった。授業料は免除してもらったが、それでも月に7、8千円は必要で、仕送りと一般奨学金だけでは足りず、アルバイトは必須であった。特別のつても特技もない新入生の私にとって、寮によく求人の来る水道管工事などの現場作業が、当初、よく行ったアルバイトであった。(後略)